「当たり前にできていたのに」が…高次脳の焦りが消えたリハビリと効果

ネットで高次脳機能障害のリハビリのゴールについて調べていて思ったことを書きます。

 

あるWEBサイトにこのような主張がありました。

 

「高次脳機能障害のリハビリの目的は、社会復帰能力を身に着けること」

 

なるほど!と思いました。私もそのように思っています。でも、次の文言では…

 

「そのためには心の強化が必要」

 

と書いてありました。ここで「???」となりました。「心の強化ってなんだ?」なんとなくわかる気がするようなしないような。抽象的で映像がぱっと頭に浮かんできません。

 

昔、千葉リハから「高次脳機能障害のリハビリは日常生活」と言われましたが、この事にも関係しているのかな?と思います。

 

そこで今回は高次脳のリハビリについて自分の頭の中を整理したいと思います。もやもやしすぎですから。

 

千葉リハの作業療法は想像とは違っていた

「高次脳機能障害のリハビリは日常生活」って今は自分もそう感じていますが、この言葉を聞かされた時は絶望感でイッパイでしたね。

 

なぜなら「いやいや、それって他に手立てがないってことでしょ?だから放置するわけだ。でも放置じゃぁ外面が悪いから、日常生活がリハビリなんてそれっぽいカンバンに挿げ替えているんでしょ?」

 

私はこのように受け取りましたよ。藁にも縋る思いでリハビリを受けようというのに、しょっぱなから突き放されましたからね。がっかりなんてもんじゃないですよ。

 

「日常生活がリハビリなんて言うけれど、本当はもっと効果的で具体的なリハビリ方法があるんでしょ?騙されませんよ!」とそれでも望みは捨てていませんでした。

 

名前が「作業療法」でしたからね。とんでもなく期待値が上がっていました。「きっとこれが脳に効果のあるリハビリなんだ!」って信じていました。

 

だから必死になってリハビリを受けましたね。週に2回。一時間半かけて千葉リハまで電車で通いました。易疲労だから超グッタリ。午前中に開始だからちょうど通勤にもぶつかります。しんどすぎでしたよ。

 

でも実際は…やっていて空しくなるような内容でした。絵を覚えたり、足し算とかね…。それでも全力投球しましたが…。

 

私が受けた作業療法は高次脳のリハビリではなかったようです。記憶力の変化の測定だったようです。「だったら時間とお金をかけて行く必要はなかったんじゃないか?」って今になって思います。ピンポイントで私の弱点を突いてくるのは凄いと思いましたが…。うーん。

 

 

 

未だに思います。

 

「千葉リハのグループリハビリは通う価値があったが、作業療法は行く必要はなかった。」と。

 

いま思えば妻も「行く必要はないのではないか?って最初に言っていたような…。」どうやら私だけが一人舞い上がっていたようです。

 

 

 

高次脳機能障害の一番の治療、リハビリって実際はどうなの?

私の見解ですが「高次脳機能障害とはバランスの取れた脳機能の一部が欠けていびつになる事」なんだと思います。

 

高次脳ってはたから見ると、とんでもなくつじつまが合わない状態に見えると思います。

 

例えば「1245*75」はさくっと暗算で計算できるのに「100/25」は計算できない。みたいな。誰がどう見ても100/25の方が簡単ですよね。瞬間的に4と答えが出ますよね。

 

でも掛け算はどうでしょう?紙に書いてみないと答えが出せなくないですか?

 

でもこれを瞬間的にこたえられたらどうでしょうね?すごいですよね?当然100/25なんて瞬殺ですよね。そう期待しますよね?

 

でもそれができなかったりするんですよ。それが高次脳機能障害特有の能力のアンバランスさなんです。

 

ふざけているわけじゃないですよ。現実ですよ。とても理解できにくくて当然ですね。つじつまが合っていないのですから。それが高次脳機能障害なのだと思います。少なくとも私はこの状態です。納涼が超いびつでした。

 

高次脳のリハビリって能力が欠けてしまっていびつな状態なのを自覚することが目的なのだと思います。自分の状態を理解できない事には対策のしようがないですものね。

 

自分の状態を理解する手助けになるのが日常生活なのだと思います。自分一人の閉じた世界では能力の凸凹が実感できませんからねぇ。

 

様々な人と交流して自分の欠点が見つかる。見つかるのは欠点だけではなくて長所も見つかるはずです。障害を負うことで新しい知見を得ますし。元々あった能力がそのまま残ってもいます。

 

こうして、日常生活の中ですったもんだする。問題があれば解決しようとする。ミスを繰り返さないようにする。

 

例えていうのなら「いびつになった脳機能に日常生活というやすり掛けをする。」感じでしょうか。

 

能力の形を整えていくわけですよ。これが「高次脳機能障害のリハビリとは日常生活である」のイメージ化になるかな?障碍者生活3年目にしてようやく実感。言語化できたかな?

 

「日常生活がリハビリ」を実践した結果どうなった?

私は「日常生活がリハビリ」を実践していると思います。

 

その結果もうすぐ3年目にして「だいぶ以前の自分を。以前の世界を。取り戻せている」ように感じています。

 

なぜそう言えるのか?

 

やれることがかなり増えましたからね。入院した当時は運転再開が最大級の目標でした。運転再開しても易疲労であっという間にグッタリ。運転再開できた人は全体の5%(何の5%かは忘れました)とか言われてショックを受けていましたが、無事に乗り越えました!5%の壁をクリアですよ!!

 

何かをやろうとすると「以前はできていたことが、今はなぜかできない」が多かったですが、今は「なぜか」というものは皆無ですね。なぜできないのかが分かっています。理由をつかんでいます。

 

出来ない理由が分かるのなら対策が打てますね。だから最近はあまり困りごとがないです。「お昼に何を食べたのか」は相変わらず思い出せませんが、別に困りませんしね。どうでもいい事です。

 

「高次脳は日常生活がリハビリ。」

 

そうですね。そう思います。日常生活を実際に送って不都合があれば、いびつになった能力を削るなり埋めるなりすればいいのです。

 

一つ一つ対処していけばやがて困り事は無くなります。それって千葉リハのリハビリ室の中では絶対にかなわないものですね。

 

高次脳機能障害は自覚がゴールではなくて自覚してからがスタート

千葉リハからは「リハビリのゴールは自覚」と聞いています。

 

その通りだと思います。リハビリのゴールは自覚ですね。実体験からそうとしか思えない。

 

でも当事者の障害対策のゴールはそこじゃないですね。自覚はスタートですね。

 

だからまとめるとこうなるかな?

 

「高次脳機能障害者にとってリハビリは自覚がゴール。治療手段は日常生活。」

 

…って、千葉リハから最初から言われていましたね!あれまぁ…。

 

でも、人から言われて「ふうん」って思うのと、経験から「こうだ!」って感じるのとでは、全然違いますね。

 

自覚って「自分は高次脳なんだ!」って頭で考えることじゃないですね。「なぜできていたことが出来ないのか?」を自分事として捉えられるようになることなんだと思います。

 

「なぜできない?」を理解するのが高次脳機能障害克服の鍵なのかな?

 

そもそも「なぜ?」を理解していないとパニックを起こしますしね。

 

逆に「なぜ?」を理解していると事前に予想が付きますものね。だから「心構えができる」し「準備ができる」そして「そんなもんだよ」って考えられるようになる。

 

「障害の受容」って言葉は大層なイメージがあるけれど、要は「そんなもんだよと受け入れられている」と悟ることなんでしょうね。

 

ここまで悟ると「以前の自分ならできていたのに!」のような後悔の気持ちが和らぎますね。

 

そして「あせり」が消え始めるのだと思います。

 

まとめ

高次脳機能障害の一番のリハビリは

 

【障害でいびつになった能力を、日常生活というやすりで削って、工夫で埋めて、滑らかにすること。】

 

リハビリの効果は

 

【障害を受容して焦りが消える】

 

ですかね。

 

高次脳機能障害生活がもうすぐ3年目になる私の見解です。